吉川恭生
1959年滋賀県大津市に生まれる。三世代同居の家庭で、木工芸の巧手だった父と、牧師、外交官、人権活動家であった祖父西村関一に強く影響を受ける。少年時代に見たマリノ・マリーニの作品に強く惹かれ、19歳の時に芸術家を志望しイタリアのペルージャに留学。1981年にはジュネーブ芸術大学に入学し、ガブリエル・スタヌリス教授の元で彫刻を学ぶ。ジュネーブで開催されたグループ展 Sculpture en Plain Air 1984で、巨大な自然石をステンレス製のケーブルで空中に吊した「Nostalgia」を発表。
1984年、日本に帰国し、京都芸術短期大学と京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)で教鞭をとりながら、「芸術-社会-環境」をテーマにしたプロジェクトを開始。琵琶湖のほとりに工房を構え、墨と丸太木材を使った一連の作品(「最後の晩餐」、「虹の彼方に」等)を制作。1989年には、京都(galerie16)、フランス・マルセイユ(Porte Galerie Avion)で関連した展覧会を開催する。
1990年には、Biwako Artists’ Organization(BAO)を設立。住民参加型の国際芸術祭、「BAO 芸術祭 in 沖島(1990年)」、「BAO 芸術祭 in 堅田(1991年)」を開催。街全体を会場に使い、関西や海外で活動するアーティストを中心に美術、音楽、パフォーマンスなどの作品を一ヶ月間発表した。
1993年、パリ市と京都市の共同企画として「芸術計画Z&A」を立ち上げる。パリのアート集団「ル・ジェニー・ド・ラ・バスティーユ」とアトリエ交換交流を行い、1995年から1996年にかけて60名以上がアーティスト・イン・レジデンシーとして参加。関連して1997年には京都の芸術文化振興のためのシンクタンク「京都アートカウンシル」の幹事となる。
1993年、滋賀県大津市のギャラリー Imagineにて「Offrande:供物展」を開催。この時期から供物」についての作品群を製作。高度に発達した情報社会で、人はどのような「供物」を捧げ、それをどのような台(場)に供えるのか、私たちは時間を、自身を、地球を、あるいは仲間を生贄とするのだろうか?仕事という祭壇に、お金という祭壇に、社会という祭壇に、あるいは思想という祭壇に、それらを供えるのだろうか。古来から現代に続く、畏怖、賛美、祝福に対する精神的儀式が「供物」シリーズを通して考えられた。
1995年、阪神淡路大震災を受けて、被災地でのボランティア・リーダーとして活動する。これがきっかけとなり、国境なき医師団(MSF)に参加。1999年から2000年にかけて、グルジア、コソボ、コンゴ・ブラザビルにロジスティシャンとして派遣される。
紛争地帯での活動を経験し、現代社会における対面でのコミュニケーションの重要性を強く認識する。様々な人がコミュニケーションを交わす空間を意識し、京都の中心部でバー・レストラン「Alternative Space ATHA」をオープン。「社会彫刻」の実践として、6年間運営する。
2008年、イタリアのアリエ国際彫刻ビエンナーレに招待され、「Girovaganza Platonica(プラトンの徘徊)」を制作。人間が作り出した様々なイズム(思想)の間を観客が徘徊することで、それらが人間の自然観に与えてきた影響について問うた。
2011年、東日本大震災直後には、被災地連帯活動を行うため、SWTJ(Solidarity With Tohoku, Japan)を立ち上げ、代表を務める。身の糧だけでなく心の糧となる活動を目指し、数年間、物資の支援、被災地での文化イベント、青少年に向けたサマースクールなどを企画する。2012年11月、京都のGalerie Apothekeにて、東日本大震災の犠牲者に捧げる大理石製の舟「La Barca della Libertà」を展示。
2015年7月、京都のMedia Shopにて個展 “No.9 “を開催。古来より歴史や文化の記録のために用いられた石板という媒体に、多言語に訳された日本国憲法第9条の条文が彫られた。
2019年9月、京都のMedia Shopでダンテの詩集「新生」を解釈した展覧会「ダンテの椅子」を開催。
2021年11月には、パンデミックの影響で延期となった沖縄での個展、「沖縄モン・アムール展」を那覇市民ギャラリーで開催。歴史や社会の振れの中に存在し続けてきた沖縄を舞台に、展覧会の場における人、一人一人の立場を問う作品を製作した。沖縄での展示に関連し、2022年11月には東京・天王洲セントラルタワー・アートホールで「泣く女」と題した展示を開催予定。